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読書について:ショウペンハウエル


 僕は多読な方だとは思いますが、多読について考えさせられた本が、この「読書について」でした。多読について、引用についてなど、頭が痛いことを指摘されていますが、大変面白かったです。

一流の文章家でもあったという著者は、「思索」について述べています。「思索」とは、『秩序立てて考えを進めること。物の道理をたどって考えていくこと。』というような意味ですが、著者は、自分で考えること、という意味で使っているように思います。読書とは思索を他人に委ねる行為であると言っているわけです。それがよく表れている一文を少し引用しておきます。

『学者とは書物を読破した人、思想家、天才とは人類の蒙を開き、その前進を促す者で、世界という書物を直接読破した人のことである。』(読書について 7ページ14行)

 自分自身で思索することの重要さを説いているのですが、確かにそうだ、と僕は思います。

 少し話は変わるかもしれませんが、思索はどのようにすればいいのか、ということを考えました。昔の哲学書が対話形式、問答形式になっていたり、教育の語源が、引っ張り出す、という意味であることを踏まえると、問うことが重要になってくるのではないかと思います。

 人間は一日に何度も(意識的、無意識的問わず)自分に質問、問いかけをしているそうです。問によって脳みそがその問題を考え始めるのです。今までため込んできた知識や経験は海に沈んでいるようなもので、絶えず漂っています。ある方向性、問を与えられた時に、それらは形あるものとして意識下に現れるのです。

 禅問答、公案なども問の形式をしています。やはり問う、ということには重大な意味があるように感じます。

 自分で考えるよりも、他人が作ったものを利用する方が早くて楽だ、ということは分かります。ただそれをいうとなると、世界旅行などしなくてもYoutubeで事足りるじゃないか、と言われているような気がして、やはりどこか違うように思います。確かに読書は他人に考えさせることではありますが、動画よりはまだ幾分自分の頭を使っています。イメージすること、文字の意味を読み取ることすらも、動画においては他人に委託しているように感じます。

 仕事に頭を使いすぎているのでしょうか、より頭を使わない娯楽が好まれているように思います。

 これから読書、特に多読になりそうな方はこの本を読むことをおすすめしておきます。本の中にも登場しますが、現実の具体的事象から目を背けるようなことにはならないで頂きたいと思います。

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