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バカの壁:養老孟司

昔話題になった養老孟司さんの「バカの壁」。初めて読んだ時は、考えたことの無かったことばかりが載っていて、なんて鋭い人なんだ、と思った記憶があります。

 永遠なのは「自分」ではなく「情報」なのだと養老孟司さんは言います。理解することを拒む「バカの壁」。これらの考えは、仏教に由来しているのではないかと思います。

 仏教では「情報」の永遠性は説いていませんが、(むしろ永遠なものは無いというスタンスですが)、情報化が進み、情報の捉え方が変わってきたためにそんな考えに至ったのではないかな、と思います。

 解剖医として、死をだれよりも身近に感じていた養老さんの経験ももちろんあるでしょう。ただ、「死の壁」(同じく養老孟司さん著作)などを読んでいると、死が身近である、というこの「身近」は、死は自分にも訪れるのだ、ということではなく、どこか親しみのあるものとして死が描かれているように感じました。

 これは現時点での僕の考えたことなので、これからさき変わっていくこともありますが、死を特別なものとして語っていないように思いました。

 現代では死を目にすることが少なくなってきています。死体を目にすることはもちろん、その死体ですら、綺麗な状態であることが多いです。死はもっと当たり前なことなのだと思います。

 生と死というのは対立する概念ではなく、程度の差ではないかと思います。死後にひげが伸びたりするなど、「死後」も細胞は生きている、というように、また日々の中で幾つもの細胞が死んでいるように、生と死は分けて考えるものではなく、もっと大きな概念の一面が生であり、死であるのではないかと思います。

 最近考えたことではありますが、時間というのは宇宙の始まりから終わりまでを考えると相当長いですが、その時間の中で、「自分」が生きていない時間の方が圧倒的に多いわけです。

 自分が生きている時間を、無限の中に現れる不連続点と言ってもいいですが、生まれていないこと、死んでいることすらも自分であると考えると、「自分」は実は永遠性を持ったものなのではないかと思います。

 最初に紹介した養老さんの主張や、仏教の諸行無常などといったものと反するとは思いますが、弁証法的に考えると、有限は無限を内包しているように思います。もしくは、有限性、無限性も、なにか大きなものの一つの面が現れているだけかもしれません。

 閑話休題。バカの壁の中で、人は思考を反芻するように出力と入力を繰り返しているとありました。そういう行為を思考なり思索と呼ぶのでしょうが、ぜひとも現実を離れないで、地に足のついた思索をして欲しいと思います。考え事をしていたら気が付いたら家に着いていた、ということがよくありますが、どうせ歩くなら景色を見ながら歩いた方が、思索の機会は増えます。

 思考のおかげで文明は発達したのでしょうが、その分不安や不満などが目立つようになった気はします。不安というのは、未来のことについて考えることで生じますが、そもそも未来とは「未だ来ず」、まだ存在していないことなので、必要以上に不安を覚えるのはあまり意味があるように思いません。

 地を離れた思考を行うようになったことで、必要以上のことまで考えるようになりました。原始仏教などでは、瞑想などを行い思考を反芻しないようにしていくそうです。そう思うと、思考出来るということが良いことなのか、悪いことなのか分からなくなりますが、やはりどちらの面もあるのでしょう。

 後、僕はよく仏教関係のことに触れますが、それは好きな数学者の岡潔さんが仏教用語を良く使われるということや、鈴木大拙さんの著作を良く読むことから興味を持っているためです。ただ、最近は遠藤周作さんの影響もあって、キリスト教にも多少興味が出てきたので、今後はそちらに関することもちょくちょく触れていくかもしれません。

 基本的に本のレビューというよりかは、本を読んで考えたことを垂れ流す、というのが近いので、感想を聞かれても「面白かった」としか言えません。

 考えもしなかった分野、領域への足がかりとして、「バカの壁」は一読の価値はあると思います。

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