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ライ麦畑で捕まえて:J・D・サリンジャー 感想と解釈
ジョン・レノンを殺害したマーク・チャップマンをはじめ、何人かの殺人犯が愛読していたり、所持していたりしたことで有名なこの作品。主人公ホールデンの青春小説、ということになっているそうですが、青春にしては溌剌さや爽やかさのない、全体的に暗い感じです。
全ては主人公の独白という形で進むので、ホールデンの目で見て、ホールデンの頭で考えることになります。作者は一貫して、ホールデンという枠からはみ出すことに無いように、この作品を書いているように思います。
僕は結構好きな話でした。もしこの作品を読む方がいるなら、文字通りに受け止めない方が良いです。皮肉屋で、自分の感情や本音にも気付いていない主人公は、自分はこうである、とよく断定していますが、それが事実かどうかはわかりません。
地の文が全て独白なので、出来事は全てホールデンというフィルターを通していることになります。彼が何を思っていたのかは、読者が察するしかありません。そう言う意味で、複数回読んだ方が良いものだと思います。
以下、作品の解釈になるので、ネタバレが嫌いな方は見ない方が良いかもしれません。念のため、少し下に書いておきます。
基本的におかしな行動をとる主人公。最終的に入院という形になるので、そういう精神的な病気だったりするかもしれませんが、ここでは病気だとは思わずに考えていきます。というのも、それだけでは片づけられない、普遍的に共感を得られるだろう部分も多々あるためです。
さて、主人公ホールデン・コールフィールド。13のときにガレージの窓を全部ぶっ壊し、何故かというと、ただぶっ壊したかっただけだと言います。その他にも、頭に血が上って友達と喧嘩をするなど、素行に問題がありそうですが、少しこの二つには差があるように思います。
血が上って喧嘩する、というのは、当たり前と言っては変ですが、当然のことではあります。精神的にそれほど成熟していないような人は、ときたまあることです。大人でさえ、酒を飲むなどしたときには喧嘩っ早くなることもあるでしょう。
しかし、それと「壊したかったから壊した」というのはまた違うように感じます。なんとなく壊したい、という衝動は誰にでもあると思います。例えば、高いところにいる時、ここから落ちたらどうなるんだろう、ということを想像してしまう人はいると思います。実際やるかどうかは別として、そういったことをやろう、やってみたいと思うのは至って普通なのです。
ただ彼は実際に行動しているじゃないか、と言われそうですが、窓ガラスを割る、ということはそんなにハードルが高いことではありません。一歩踏み出せば誰でも出来る世界です。その境界ははっきり分かれているわけではないと思います。その直前までは誰でも行けますし、なんなら軽く窓ガラスを叩くことも出来るでしょう。本気で壊してやる、という思いを抱くことも出来ます。
ホールデンは僕たちが理解できない存在ではありません。むしろ紙一重、というよりかは僕たちと連続的につながっている可能性すらあります。
あと彼の特徴的な行動として、思い付きで行動する、発言する、というものがあります。元々そういう夢想家というかそういう要素はあったのだと思いますが、退学から始まる物語の中でそれが顕著になります。
退学だということは、本人は自分から辞めた、というように言ってはいますが、ある集団から居場所を失うことに等しいです。本能的に集団から締め出されることは恐れるはずですから、彼は言いようのない喪失感があったと思います。ただ、彼は学校を追い出されるのが4回目だというので、もしかしたら慣れてしまっているかもしれませんが。
その喪失感や不安感を埋め合わせるかのように、ホールデンは様々な人と会おうとします。あまり知らない人でさえ、ホールデンは会おうとしています。先ほどの喪失感、不安感と言いましたが、読んでいるとどこか希望やせいせいした、といいう感情も読み取れます。
集団から爪弾きにされることは、逆に言えば集団から解放されることですから、一種の解放感もあったでしょう。しがらみから解放され、自由を手に入れたホールデンは、勢いのまま学校を飛び出していくことになります。
その後も、思い付きでの将来設計などが目立つようになります。ホールデンは別に死にたいと思っているわけではありませんから、生きていく手段を無意識で考えているようです。道を歩いていたとしても、景色よりもそこから連想される記憶の方が意識に飛び込んでくるように、現実よりも空想や妄想の中に生きている少年のようです。
長期よりも短期的な視野しか持ち合わせていないようで、将来の見通しが甘いなど、少年らしさを感じます。
物語を通して、彼は大人、インチキであること、そして子供扱いされることを嫌っています。それと対比して、フィービーやアリーをはじめとする、素直な子供に対しては好感を持っています。また、お世話になった先生の場面では、先生がインディアンから毛布を買ったことについて、先生が素直に喜んでいることについて触れています。
また、ただ雪玉を好きで持っているのに、人に当てると思われてバスの運転手に捨てるように言われる場面もあります。ホールデンは純粋に、好きなものを素直に好きだと思っているようです。もしかしたら社会という大きな枠組みには頭が回っていないかもしれませんが、その一部として登場する大人たちのことを、彼は嫌っています。
大人になりたくない、というように言い換えてもいいかもしれません。一方で、酒やたばこ、また大人びた行動など、大人に憧れる、もしくは子供っぽく思われたくないいう感情もあります。こうした矛盾した感情というのは誰もが持ち合わせていることです。
特に思春期においては、大人、子供どちらでも無い立場としても見ることも出来ます。大人にもなれず子供にも戻れず、そうした狭間でホールデンはもがいています。一足先に成長していく同年代の女の子との交流や、売春婦との一幕(性交渉へのしり込み)を見ると、自分が変わっていくことにも恐怖を感じているように思います。
退学という出来事から始まり、自分の将来についても考えなければいけない、自分の道を自分で決めなければならない、という状況は、ホールデンに自分は子供のままではいけないと悟らせてしまいます。出会った尼さんや妹のフィービーとの会話から、ホールデンは自分の利益だけで動くような人を嫌っていることが分かります。
他人のことを素直に考えてくれる、大きな優しさに彼は癒され、安心感を抱きます。子供が親に抱く安心感、無条件の愛をもたらしてくれるのは、ホールデンにとっては、純粋な感情を持ち合わせた人間だけでした。
ラストシーン、フィービー回転木馬に乗ってくるくる回るのをみて、ホールデンは幸福感を得ます。僕にはまだそれが何故だか分かりません。ただ、将来のことや、過去もなく、ただ純粋に今を楽しむフィービーの姿を見て、まだ自分は子供でいてもいい、と思ったからかもしれません。
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