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とんでもない未来を引き寄せる予見力:苫米地英人 感想


 コンピュータ科学の権威で、脳科学についても研究されている、苫米地英人さんが書かれているこの本。興味は無かったのですが、おすすめに出てきたので買ってみました。様々な分野の知識を吸収されているようで、膨大な知識を元にこれから先を見通す力をどう養っていくか書かれています。

 未来についても詳しく語られていますが、そんな先を見通す予見力、これを身に着けられるようにと、そういった内容になっています。
 
 感想としては、面白いというのはもちろんですが、大変読みやすいということが大きかったです。知識のもととなった分野は、コンピュータ科学、仏教、政治、経済、脳科学、科学技術など、多岐にわたります。

 この本の中で、特に僕の興味を惹いたのは、RAS(Reticular Activating System)、そしてスコトーマの話でした。これはこの本の中の本当に一部にしかすぎないので、詳しいことは是非読んでみて、自分の目で確かめてください。

RASとは?

 Reticular Activating System、日本語では「網様体賦活系」、「脳幹網様体賦活系」などと表されます。簡単に言ってしまえば、目の前の事象、世界のどれを認識して、認識しないかを決めるフィルターだそうです。「引き寄せの法則」などを謳う人達にも有名なようで、この言葉を検索するだけで、そういうサイトにどうしてもたどり着いてしまいます。

 脳科学的にどうなっているのだろうと調べてみると、覚醒に関する部位だという説があるというくらいで、実際どういう機能を備えているかについてははっきりとしたことは分かりませんでした。

 とはいえ、実際に生活していく中で、情報の取捨選択はしているわけです。苔を見て美しいと思う人もいれば、見たことすら覚えていない人もいます。今日一日赤い服の人を探してと言われれば、街中は赤い人だらけのように思えてしまうこともあります。

 このように、全ての情報を処理していると大変ですから、認識するもの、認識しないものに分ける機能は備わっているように思います。昨今音楽を聴きながら通勤する人、通学する人が多いですが、試しに音楽を聞かずに景色を見ながら歩いてみてください。毎日見ている景色なのに、新しい発見だらけになります。

 自分がいかに目の前の景色を見ていないかが良く分かります。そう考えていくと、認識していない、出来ていないこと、というのは景色だけではないかもしれません。気付くこと、これこそが天才と凡人の境界線だと僕は信じていますが、観察すること、気付くことは思索の大いなる一歩になると思います。

 しかし、何かに気付くこと、というのは一長一短であると思われます。先ほどの赤い服の人を探すということでいえば、では黄色い服を着た人は何人いたかと問われれば、答えられないと思います。

 新しいものに着目すると、別のものが見えなくなります。人間が一度に覚えられるものの数は7±2だといいますが、あまり多くのものは同時にはみえません。

 もちろん、まずはあれを認識して、次にこれを認識して、と一度に見ないようにすれば出来ないことはないですが、膨大な時間がかかります。

 では何に注目するのかと言えば、より抽象度の高いものです。例えば、赤、黄色ではなく、原色の色の服を着た人、とすれば、赤も黄色も目に入ります。

 現代人は言葉を手に入れてしまっているので、無意識に世界を区切ってみています。以前の「ことばと思考」でも少し触れましたが、色などは連続的に変化しているので、赤と橙などは本来別の色ですが、赤という風にくくってしまうことも出来ます。そのままの世界は認識出来ないとするのは、不可知論だったと思いますが、一朝一夕で区切る癖が治るとも思いません。だからこそ修行、苦行によって真の姿を見ようとしてきた人達がいるわけです。

 認識するもの、しないものを区別してしまうのであれば、より大きなくくりで見てあげれば解決する話です。この考え方でいくと、究極的に抽象度を高めていくと、全てが認識できるようになるはずですが、苫米地さんはそれを空であるという風に解釈しています。

 僕は未だに空が何であるかが良く分かっていませんので、それが正しいか正しくないかはおいておきますが、抽象度を高める、ということは良いことのように思います。

スコトーマについて

 先の話で、認識できるもの、認識できないものについてありましたが、認識できないもののことをスコトーマというそうです。この本では、それに気付くための方法が書いてありましたが、僕も似たようなことを考えたので、そちらの方を少し語りたいと思います。

 鈴木大拙の本の中で、否定することで肯定する、否定はしていても、全体的にもれば絶対的肯定である、というようなことがありました。それの真の意味についてはまだ分からなかったので、それをきっかけに考えたことを話します。

 それは否定するということです。あらゆるものについて否定し、その理由を考える、というものです。問が脳みそを動かす、と以前言いましたが、当たり前だと思っていることに関して、脳はあまり良い働きをしてくれません。

 当たり前のことを否定し、何故?と問いかける。瞑想では考えることはしませんから、これは瞑想でもなんでもありません。

 実際に例を上げてみます。過去は変えられない。これは常識でしょう。ではこれを否定して、理由を考えてみましょう。これに対する答えは、世の中にたくさん本がありますから、そこに書いてあると思いますが、まずは自分で考えてみてください。

 過去は変えられない、の否定は、過去は変えられる。解釈の仕方でどうにでもなりそうですので、元の命題は絶対的なものではありません。
 
 常識を打ち破る、スコトーマに気付くきっかけとして、全てを否定する、というのも面白いと思います。

 蛇足かもしれませんが、例えば「自分は自分でない」というように、自分を否定することで、スコトーマに気付き、結果として、より広い自分に気付くことが出来たのなら、それは自分自身の肯定であると思います。これが答えかは分かりませんが、否定には決して悪い意味はないということを覚えておいて欲しいと思います。

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