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情緒と日本人:岡潔

岡潔とは

 世界的に有名な数学者、岡潔。多変数複素関数論という良く分からない数学の分野において、「3大問題」と呼ばれるものを一人で解決してしまった、あまり使いたくはないですが、まさに天才と呼べる人物でした。

 僕が岡潔を知ったのは、「林先生の痛快!生きざま大辞典」がきっかけでした。変人であったというエピソードはよく知られているようですが、実際にどのような人物であったかはあまり知られていません。彼の著作物を知っている人はあまりいないでしょう。

 この本以外では、小林秀雄さんとの対談、「人間の建設」を読んだことがあるので、そちらも踏まえながらこの本について語っていきたいと思います。

情緒と日本人

 この本は、岡潔さんのこれまでの著作から、「情緒と日本人」、「日本民族」、「数学と芸術と文学と」、「教育」、これらに該当する部分が集められています。

情緒と日本人

 まずは「情緒と日本人」について考えていきたいと思います。彼は多くの著作物の中で「情緒」という言葉を使っています。「情緒」という言葉の意味はいくつかありますが、岡潔さんが使っている「情緒」に一番近いものは、「事に触れて起こるさまざまの微妙な感情。また、その感情を起こさせる特殊な雰囲気。」(goo国語辞書)だと思われます。

 情緒を感じる場面というのはよくありますが、情緒とは一体なんぞやと聞かれたとき、上手く答えられる人はあまりいないのではないでしょうか。僕自身、情緒がどんなものかはぼんやりとしていますし、最近まで正式な読み方が「じょうしょ」であることすら知りませんでした。

「情緒」という熟語は、「情」と「緒」から成り立っています。「情」は感情、人情、誠意、意地、愛情、情欲、事情、趣といった意味が、「緒」は、細く長いひも、糸口、長く続くこと、動き始め、といったような意味があります。

 こうしてみると、情緒というのは、情の起こりはじめ、動きはじめ、情が長く続くこと、というように理解するが正しいように思います。「情」というのが、愛情や感情すら内包した広い概念であることから、情の汎用性というのは高くなりそうです。

 そんな心の動きに気付くことで、「情緒あふれる」などということが出来るのではないでしょうか。そう考えると、情緒を解するためには、自分の心の動きを見なければならぬことになります。そう考えると、例えば、秋のはじめ、緑に赤や黄色が混じり始めた木々を見て「いいなぁ」と思うことが情緒で、「いいなぁ」と思ったことに気が付くことが、情緒を感じるということなのではないでしょうか。

 情とは情欲などの激しいものも含めて、対象に対して好意的な印象を抱くことです。ただこれは執着と表裏一体の面もありますから、岡さんの語る情緒においては、もっと弱い、趣や人情、感情、そして愛情という意味でとる方が正しいように思います。

 というのも、岡さんの著作にはたびた仏教用語、禅の用語が登場します。一つのものに執着することは、仏教では良いこととしていません。岡さんは仏教にも大変詳しかったようですので、おそらく執着に近い意味で「情」を使うことはあまり無かったと思います。

 ただ、やはり「情」というのは執着が無ければいけない概念だと思うので、あくまで執着の程度の差だと思います。
 
 「情」とは趣の意味もあると分かりましたので、人以外にも情が沸くと言えます。岡さんはこれを情が通じる、というように表現しています。人にもモノにも同じ字を宛がい、同等の感情や愛情を覚える。これが日本人だと言っているように思います。

日本民族

 続いて「日本民族」、これについては、先ほどの日本人は情緒の民族である、という考えを引き継いでいます。日本を考える上で、日本以外にも目を向けなければなりませんが、岡さんは特に西洋文化を引き合いに出すことが多かったので、そちらと対比して考えてみましょう。

 西洋文化を物質主義だと言いきっています。それに対して日本人は情の民族であると。ただ、キリスト教なんかは愛情や人情という面で言えばよっぽど情があります。もしかしたら、キリスト教文化の情というのは、非常に純粋でまっすぐなもので、岡さんが考える情というのは、もっと複雑で曖昧で、繊細なものなのかもしれません。

 この章では、主に日本のありかたについて触れていますが、戦後まもなくの文章もあるようで、現在の僕からは良く分からない部分が多々ありました。今後は戦争についてももっと調べなければここは理解できないかもしれません。

 目についたのが、仏教、とくに禅に興味をもっておられたようで、禅師の名前や用語がいくつも登場します。また、仏教の用語、色受想行識などを、生理的に、つまり脳科学の観点から理解されているようで、岡さんの知識の幅広さを感じました。

 人間の建設においても、ピカソにはじまり、トルストイなど、芸術方面にも造詣が深かったことが伺えます。

数学と芸術と文学と

 ここでは、岡さんの専門の領域である数学を飛び越えて、芸術の分野も語っていきます。僕も数学をやっているものの端くれではあるので、一部は分かります。

 問題を見たときに、この方向に行けばよいのではないかと自信を持って向かいますが、解けない。行き詰った所でまた立ち返って考えたりします。これを繰り返しているうちに、もうこれ以上分からないという時が来ます。

 そして歩いているときや何でもないようなとき、腑に落ちるにしては強い発見があることがあります。僕はそんな体験稀でしたが、岡さんはやはり違ったのでしょう。

 それを岡さんは「発見の鋭い喜び」という言葉を引用しています。自分の力で出来る所、これを自力といい、それを出し尽くした先でふと訪れるものがある、これを他力という、と鈴木大拙は語っています。

 「直観力を高める数学脳のつくりかた」という本では、それを脳科学的に説明していました。(大分分かりやすい書き方ではありましたが)思索の機会は具体的事象にあると言っていたのは、ショウペンハウエルだったと思いますが、脳みそがリラックスした状態を作ることはやはり大事なことのようです。真剣に問題に取り組んだ後、という条件付きではありますが。

 数学と芸術は似ているそうです。岡さんがそう言う根拠については少し理解が及びませんでしたが、どちらも個人の中に消化して取り込んできたものを一つの方向にまとめ、表現する、という点では似ているのかもしれません。

教育

 「教育」について、一部について触れておきます。人は大自然のあやつり人形なのです、と岡さんは語っていますが、似たようなことを養老孟司さんは語っていました。

 養老さんの場合は、特に子供が自然である、ということを言っていたわけですが。どちらにせよ、人はやはり自然を支配しているようで、自然の一部であることには変わりがないのだと思います。
 
 都市と自然は対立する語句のようですが、やはり畢竟程度の差であるように思います。教育、ということは人間を都市化させることのようにも思いますが、自然をよく観察して、その一部であることが重要であると述べていると思います。
こちらの記事もどうぞ。「読書について:ショウペンハウエル

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