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間抜けの構造:ビートたけし 「間」について考える
ビートたけしさんの「間抜けの構造」。その題名の通り、間抜け、間の抜けた、間の悪いことについて書かれています。
「間」というのは、何かと何かの間、という意味から派生して、意識の間を狙う(隙を窺う)、ゆとり(空間的な隙間)、のどか、などという意味があります。この漢字の本質の意味は、何かと何かのあいだ、ということでしょう。
さて、この本において、ビートたけしさんは、笑いは間が命である、映画も同様である、とこのように語っていますが、そこに触れだすと、内容の要約になってしまうので、笑いでも映画でも無い方面の、「間」について考えたいと思います。
例えばコミュニケーション。人と人が出会うことで、「間」が生じます。それは時間的なものでもあり、空間的なものでもあり、そして精神的なものでもあります。
というのも、相手が誰であろうと早口で話す人、常に自分のペースを崩さない人がいますが、それは頭でっかちの人、もしくは自信がありすぎるか無さすぎる人など、相手よりも自分のことを考えている人です。
一般的に女性の方が会話が上手い、コミュニケーション能力が高いといいます。会話を聞いていても、意味のある相槌では無かったりしますが、彼女らが会話において最も重要視しているのは、無意識に身についてきたものではあると思いますが、「間」であるとそう思うのです。
「間」、これはタイミングととることも出来ます。適切なタイミングで相手の言葉を繋いであげると、相手は気持ちよく話せるでしょう。それがどのタイミングなのかは、人によって違います。これは数をこなす、ということしかないと思いますが、「間」を意識するのとしないとでは、得るものの質が変わってきます。
意識しないと出来なかったものが、無意識に出来るようになる、これはどんなことにおいてもあることです。スポーツなんかもそうでしょう。正しいフォームは最初のうちは意識しないといけませんが、いつのまにか無意識に出来るようになっている、こんなことは良くあることです。
会話だけではありませんが、何かを会得しようと思った時に、実践無しではかなり時間がかかるでしょう。知識だけで出来ないとは言いませんが、我々一般人にとっては非常に難しいことだと思います。
ただ、これも適度な距離感がいるでしょう。相手を通り越して喜んだり悲しんだりすると、主役は相手ではなく自分になってしまいます。相手と全く同じように悲しんでいてもおかしいですから、やはり隙間は埋めなければなりませんが、ぴっちり埋めてしまうのも良くないようです。
「間」というのは、何かと何かの間、という意味から派生して、意識の間を狙う(隙を窺う)、ゆとり(空間的な隙間)、のどか、などという意味があります。この漢字の本質の意味は、何かと何かのあいだ、ということでしょう。
さて、この本において、ビートたけしさんは、笑いは間が命である、映画も同様である、とこのように語っていますが、そこに触れだすと、内容の要約になってしまうので、笑いでも映画でも無い方面の、「間」について考えたいと思います。
例えばコミュニケーション。人と人が出会うことで、「間」が生じます。それは時間的なものでもあり、空間的なものでもあり、そして精神的なものでもあります。
時間的な間
時間的なもので言えば、「間」とは、会話のリズム、呼吸のリズム、ということになるでしょう。相手の「間」に合わせられる人ほど、会話が上手ではないかと思います。というのも、相手が誰であろうと早口で話す人、常に自分のペースを崩さない人がいますが、それは頭でっかちの人、もしくは自信がありすぎるか無さすぎる人など、相手よりも自分のことを考えている人です。
一般的に女性の方が会話が上手い、コミュニケーション能力が高いといいます。会話を聞いていても、意味のある相槌では無かったりしますが、彼女らが会話において最も重要視しているのは、無意識に身についてきたものではあると思いますが、「間」であるとそう思うのです。
「間」、これはタイミングととることも出来ます。適切なタイミングで相手の言葉を繋いであげると、相手は気持ちよく話せるでしょう。それがどのタイミングなのかは、人によって違います。これは数をこなす、ということしかないと思いますが、「間」を意識するのとしないとでは、得るものの質が変わってきます。
意識しないと出来なかったものが、無意識に出来るようになる、これはどんなことにおいてもあることです。スポーツなんかもそうでしょう。正しいフォームは最初のうちは意識しないといけませんが、いつのまにか無意識に出来るようになっている、こんなことは良くあることです。
会話だけではありませんが、何かを会得しようと思った時に、実践無しではかなり時間がかかるでしょう。知識だけで出来ないとは言いませんが、我々一般人にとっては非常に難しいことだと思います。
空間的な間
空間的な間、というのは相手との位置関係であったり、空間をどう制覇するか、どう譲るかなどを言います。例えば身振り手振りが大きければ、その分空間を話者が支配することになりますから、それを続けているのでは、対等な関係にはなれないでしょう。
相手との距離感、日本人特有かどうかは分かりませんが、近くに来られることを嫌がる節があります。トイレや、食堂など、一つ空けて使われることが多いと思いますが、横に行くのも横に来られるのもあまり良しとしていないようです。
パーソナルスペース、とでもいうのでしょうか、個人的な空間に土足で踏み入られるのを嫌うように思います。だからこそ、欧米にはないような、土足を脱ぐための外でも中でもない空間、玄関や、土間などといった場所が出来上がったのかもしれません。
どちらにも属さないが、どちらにも属するという奇妙な空間が、日本人の家にはありました。これが、人と人の「間」においても適用されるのかもしれません。
空いている席は、誰のものでもありませんが、既に座っている人のものでもあると、そのように認識しているように思います。適度な距離感を保つこともそうですが、先にも述べましたが、身振り手振り、腕組みなど、空間をだれに受け渡すか、というのもコミュニケーションにおいては大事なことのようです。
精神的な間
精神的な間、というのは、相手の精神状態と、こちらの精神状態の差、隙間という面があります。相手と精神状態が乖離していると、会話は楽しいものではなくなるでしょう。
相手の精神状態を察知し、これに近づけること、難しく言っていますが、要は相手が喜んでいたら喜ぶ、悲しんでいたら悲しむ、それだけのことです。
ただ、これも適度な距離感がいるでしょう。相手を通り越して喜んだり悲しんだりすると、主役は相手ではなく自分になってしまいます。相手と全く同じように悲しんでいてもおかしいですから、やはり隙間は埋めなければなりませんが、ぴっちり埋めてしまうのも良くないようです。
精神的な間、これには相手の事情にどれだけ踏み込むか、ということでもあります。相手の玄関の広さがどれだけなのか察知できる人は、土足である程度ずかずかと入り込みます。人によってどこまで踏み込んで良いかは変わりますが、地雷を踏むこともあるので気を付けましょう。
まとめ
僕はコミュニケーション、という点で「間」について考えてみましたが、世の中は「間」で溢れています。探そうと思えばいくらでも出てくるでしょう。
「間抜けの構造」においては、「間」だけではなく、タイトル通り「間抜け」についても書かれています。むしろこちらが本筋ではありますが、笑いや映画について深く考えぬいてきた、たけしさんの思想が少しは分かると思います。
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