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短編集「恋の罪」:マルキ・ド・サド 感想

マルキ・ド・サドとは

 マルキ・ド・サドは、18世紀頃のフランスの貴族、小説家です。サディズムの語源でもあるなど、所謂変態的な性癖を持っていたと言われています。サドの作品は、宗教観や倫理などに縛られていない、という風にもとることが出来、澁澤龍彦らが和訳したことでも有名です。彼は虐待と放蕩の罪で刑務所と精神病院に入れられましたが、彼の作品の多くは獄中で書かれたと言われています。

恋の罪

 この短編集は4作ほどの短編が入っていますが、どの作品もいい感じにぶっ飛んでいます。倫理観や宗教観を無視している、というよりは、それに反している背徳感すら描かれているように思います。

 雰囲気的には少し暗い感じですが、じめじめとした陰気な空気というよりは、ほどよい湿気があるというくらいです。また、華やかな部分もありつつ、その中に暗い闇が描かれており、ただのエロティックな小説ではないことが分かります。

 どの作品も、「恋の罪」にまつわる出来事が描かれていますが、その名の通りで、恋は盲目といいますか、時に宗教や倫理を超越するということが分かります。いざその局面に立たされたとき、人はどうするか、という人類への挑戦という風に解釈することも出来ると思います。

 具体的にどの部分がそこにあたるかは、ぜひ自分で確かめてみて欲しいと思うので、ここではいかに僕たちが宗教観や倫理観などに縛られているかを考えていきます。

人を縛るもの

 人を縛るのは、大きく言ってしまえば二つに分かれます。一つは自然由来のもの、そして人間由来のもの。前者は自力で飛べないなどの物理的制限などですが、後者は複雑です。基本的に人間由来のものというのは、社会から受ける抑圧、と言い換えてしまってもいいかもしれません。

 社会に縛られる、とはどういうことかといいますと、これも幾つかに分けられるでしょう。社会が円滑に回るためのルール、そしてそれ以外の理不尽なルール。前者は法律や宗教の戒律、学校や地域の規則などが当てはまります。これはまだ単純なものですが、後者は、その束縛がどこから来ているか判断できないこともあるなど、正体不明のものも多いです。

社会的な束縛

 先も言いましたが、これは社会におけるルールです。これは明文化されているもの、されていないもの、つまり暗黙の了解なども含みますが、社会がスムーズに回るようにする、という目的があることが大前提です。法律に縛られている、と感じる人はあまりいないのではないでしょうか。また、校則に支配されていると感じる生徒の数も多くありません。

 これら社会のルールに縛られていると感じる人は、そのルールによって、何かしら行動の制限を受けた人が大半だと思います。ルールに従っている限りは何も言われないのですから、その間はルールがあることすら忘れているのではないでしょうか。つまり、これらルールに縛られている人は、ルールの存在に気が付くきっかけが必要です。

 例えば校則。髪を染めてはいけない、など昔からありましたが、大半の生徒にとってそのルールは当てはまりません。元々黒い髪が多いので、このルールに反発する人というのは、地毛が黒ではない人、もしくは髪を染めたいと思っている人、ということになります。地毛が黒ではない人にとってはこのルールは理不尽極まりないものですし、染めたい人にとっても、自分がしたいことが出来ないという点でそうです。

 大半の人は、縛られていても、気にもとめないですが、縛るルールが無くなったときにどうなるでしょうか。髪を染めても良いというルールが出来上がったとしても、染めない人が大半だと思います。ここから先は、社会に縛られているのではなく、自分に縛られているということを考えていきます。

自分からの束縛

 先ほどの社会からの束縛、というのは、集団として生きていく中で、必要なルールであって(中には見当違いのものもありますが)、その人の可能性を制限するものではありません。しかし、自分自身で自分を束縛することは、自分の可能性をつぶしていることになってしまいます。

 親からの束縛はないのか、経済的なものも制限に入るだろうと思われるかもしれませんが、同じ状況であっても、自由に生きる人はいます。制限の中で自由に動くのではなく、制限がないかのように立ち振る舞える人もいます。

 外部からの束縛、正直社会的な束縛もそうだと思いますが、結局自分から発生する鎖に縛られているのだと思います。あの人の前ではこのように振る舞うとか、こういう時はこうする、というのは自分が決めたことです。出来る出来ないは0と1のように大きいですが、簡単に飛び越えられる小さな境界です。

 サドは良い意味かどうかはわかりませんが、少なくとも、制限に反発する、もしくは抑圧されることを気にしなかったのだと思います。

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