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自己について
死に至る病:キュルケゴール
「死に至る病」を読もうと思ったのですが、初っ端で躓いてしまったので、まずは自分である程度「絶望」について考えようと思いました。躓いた箇所というのが、「自己」についてでしたので、「自己」について考察したいと思います。
色々考えましたが、結局キュルケゴールの考えに影響されて類似点の多い考えに行きついてしまっているので、そこはご了承ください。
自己とは
自己とは、と言われるとまず「自分」ということが出てきそうですが、すると「自分」とは何かという話になります。他者ではないもの、という風に考えられそうですが、これについて考えていきます。
他者でないもの、というように定義したとすると、「自分」と「他者」には関係がないものとして扱われるため、唯物論的思想に行きつきそうです。「他者」と「自分」は物理的に別のものである上、精神的にも独立した存在であるから、「自分」とは「他者」ではないもの、というように言えそうです。しかし、ここでも同じように「他者とは?」という問が浮上してしまうため、本質的な回答になっていないように思います。
ではまず普遍的な「自己」ではなく、自分自身の「自己」とは何ぞやと問えば、それには物質や形のないものも含んだ「他者」の存在が必要になります。つまり、どこどこの大学を出て、趣味は何で、というような自分以外の何かを使わなければなりません。または、自分は優しい人間であるなどの自己評価も、「自己」の説明にはなりそうですが、こうした評価は絶対的ではなく相対的であるので、こちらの場合も「他者」の存在が不可欠になります。
話はそれるかもしれませんが、「では他者がいなければ自己がないのか」という疑問を抱く方がいるかもしれまんせんが、実際そういう事例があるようです。昔の話ではありますが、「ジーニー」と呼ばれる、他者とほぼ一切の関係を絶たれた少女が発見されたそうです。保護された後で少女は言葉を学んでいきますが、自分と周りの世界の境目が曖昧であったそうです。自分が誰であるか、ということが分からなかったというわけです。たった一つの事例で、上の疑問に答えられるかは微妙ですが、「自己と他者は関わっていそうだ」ということは分かります。
さて、「他者」の存在とありますが、物質的に別のものであるので、「他者」を直接「自己」の一部であるとみなすことは出来ません。そこで、点と線を想像しましょう。自分を中心の点として、自分を説明する言葉を線で結んでいきます。すると、「自分」を中心として放射状に広がる点と線が出来上がるかと思います。
ここで、例えば自分と母親という点を結んだとしましょう。しかし、このとき母親を中心とする放射状の線を作ってはいけません。もし自分が母親の職場と関わりがなければ、母親を介してその職場につながる経路を作ってはいけません。これを許してしまうと、「自分」というものが無限に広がってしまうからです。そういう意味で言うと、広義の「自分」というのは、無限に広がるものの集合体、総合であると言えるでしょう。
つまり、自分を中心とした点は、自分としか繋がっていない、という状況を設定したわけです。ここで何を言いたいのか、ということですが、今は「自分」というものが何かを考えているわけですが、その「自分」というのが図の中心にあるわけです。これは真の「自分」ではないように思います。というのも、「自分」を説明するのに、「他者」を引き合いに出さなくてはならなかったのに、他者に依存しない「自分」というものが、中心に存在しているとは考えられないからです。
そう考えると、図の中心にある「自分」というものは形式的なものであるように思います。「自己」とは、「母親」と「車」など関係ないものを結び着ける「関係」であると言えそうです。また、自分は「情報」としての「他者」を内包しているというようにも取れます。「自分(仮)」を中心とした放射状の関係を内包する大きな集合、それが「自己」であるように思います。
「自己」は関係の中には現れません。「関係」を関係として成り立たせるために存在しているものを「自己」と呼ぶことも出来ますが、「母」と「車」は関係している、という関係そのものが「自己」ではないかと思います。どちらの意味も含んでるものが「自己」ではないでしょうか。
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