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空とは

空という概念

 仏教においては、「空」という言葉は、実体が無く空しいこととして使われています。実体がないと言われる対象ですが、般若心経においては、物質や感覚や思考などがそれにあたります。仏教では、これらは空であるとしています。つまり、物質や感覚、そして思考などは実体がなく空しいものであると言っているわけです。

 仏教においては、全てが空であるのは、全て因縁によって生じたものであるから、という理由があるようですが、ここでは「空」という言葉を出発してその意味を探っていきます。ですので、意味合いが間違っていることがあるかもしれませんので、ご了承ください。

 さて、全ては実体がないと言われても良く分からない、と思われるかもしれませんので、まずは「空」という言葉から考えていこうと思います。

 「空」とは、サンスクリットの形容詞シューニャを語源として持ちます。これはインドにおける0を意味する言葉でもあり、ニュアンスとしては、何かを欠いていること、膨れ上がった、虚ろなことが近いようです。そう思うと、「空」という日本語(漢字)が、まさにそれに近い意味であるようです。

 「空」という言葉を「無」のように解釈する方もいらっしゃるかもしれませんが、「空」は何もないことを示す言葉ではありません。どういうことかといいますと、まずは「空」という言葉をどういう時に使うかを考えてみると分かります。

 「空(から)の瓶がある」という言葉は、瓶の中身が「無い」という言葉でもありますが、「瓶が有る」という意味合いも含みます。中身が無い時に「空」という言葉が登場するのです。もちろん空(そら)という空間的意味合いも持ちますが、「空」という概念においては、前者の意味で捉えた方が良いように思います。

 では「空」という言葉は、「外を覆う何かが存在する」という意味で使われるのでしょうか。そういう意味も含むと申しましたが、その言葉を使う第一目的は、「中身が無い」ことのように思います。何かものがあるが、実はその中身は無いのだ、という意味が「空」であるということではないかと思います。

 それではやはり「空」は「無」ではないのか、と思われるかもしれませんが、「無」を同じように適用する、つまり物質は「無」であるとすると、物質そのものが存在しないことになってしまいます。「空」とは、そういう物質そのものが存在しない、ということを説いている概念ではありません。「空」とは、外側の瓶の存在を肯定しつつ、中身の存在を否定する、矛盾する主張を併せ持った概念であるので、単純な否定の言葉である「無」とは違う言葉であると分かります。

色不異空

 般若心経に書かれている色不異空ですが、書き下すと、「色は空に異ならず」となります。「色は空である」と言っているわけです。「色」とは肉体や物質を表す言葉でしたので、先ほどの意味と照らし合わせると、「物質は、外側は存在するが中身が無い」というような意味になると思います。

 このとき、「外側」、「中身」というのはあくまで比喩であって、物理的なものではありません。では物質における「外側」、「中身」とは何のことでしょうか。「外側」は、瓶の例で言えば、ガラスなどで出来た容器を指し、それは目に見えるものです。そう考えると、「外側」とは、観測できる全ての情報、ということになりそうです。

 では、物質における「中身」とは、ということですが、それは「本質」とも言い換えることが出来そうです。では瓶の本質とは何か、と言えば、液体などを入れるもの、人が作ったもの、工場で作られたもの、いつか答えられるもの、ガラスで出来たもの、というように瓶を中心とした様々な情報が出てきますが、「瓶そのもの」は一向に出てきません。

 自己について考察したときと全く同じになりますが、瓶という名前のついた点を考えましょう。そこから、瓶についての情報を周りに書き、線で結んでいくと、「瓶」を中心とした放射状の図が出来上がります。しかし、真ん中にある「瓶」という点が瓶の本質ではありません。その点だけでは「瓶」は説明できないからです。そう考えると、「瓶」は、それら用途などの情報を結ぶ関係そのものであることが分かります。

 しかし、「用途」や「どこで作られた」という情報は、実体があるのでしょうか。「瓶」という言葉はそうした容器を指す言葉ですが、別に瓶そのものはそれに使われる必要もありません。別に買って叩き割るのでもいいですし、手紙をつめて海に流すのも良いでしょう。「用途」などの付属する情報は、「瓶」の「本質」についての情報ではありません。

 そう考えていくと、「瓶」を中心とした情報の関係は、それ自体の実体が無いことになります。これが色即是空の意味ではないかと思います。

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