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新約聖書 感想など

聖書を読む前のキリスト像

 キリスト教に興味を持つきっかけだったのが、「ソフィーの世界:ヨースタイン・ゴルデル」、「侍:遠藤周作」などでした。そして聖書を読んだことがないまま、自分の中で、きっとキリスト教とはこんなものだろう、と予想を立てていました。

 少し考えて頂きたいのですが、目の前に自信を無くした人がいたらどうすれば良いでしょう。悲しみに打ちひしがれた人がいたら、病気で苦しんでいる人がいたら、僕たちはどう行動すればいいのでしょうか。

 遠藤周作さんの「侍」の中で、イエス・キリストは、みすぼらしい姿として描かれ、また、キリストは生涯の中で、貧乏人や病人など、弱者のもとしか訪ねず、裕福な者のもとは訪ねなかった、というようなことが書いてありました。

 それまでの人生の中で、「汝の隣人を愛せ」という言葉を聞いたことがあったので、きっとキリスト教というのは「愛」を大切にする宗教なのだろうと見当をつけていました。ここで先ほどの問を考えて欲しいのですが、もしも僕たちを無条件に愛してくれる、受け入れてくれるような存在がいたらどうでしょう。どういうことかというと、先ほどの問の僕の答えは、ただ受け入れる、愛することではないかということでした。

 これは聖書を読む前の偏見なので違うと言われればそれまでですが、続けさせてもらいます。無条件に愛してくれる、それは親のような存在です。親からは無償の愛が受けられます。もし親が亡くなったとしても、愛してくれた事実は変わらず、それは自分が親に対する執着を完全に失うまで続きます。これは最早死後であっても愛してくれている、というように解釈することも出来ると思います。

 親というのは、基本的に我が子だけに愛情を注ぎますが、キリストはおそらく万人に対して愛を与えられた人物なのでしょう。死んだ人物であっても、こんな自分でも受け入れてもらえる、という、子供のような安心感を得られるかもしれません。

 「信じるものは救われる」というような看板をちらほら見かけますが、これは神の存在を信じるものは、その見返りとして救ってもらえる、というような意味ではなく、ただ純粋に神(もしくはキリスト)が自分を愛してくれている、というようなことを信じる、それ自体が救いなのだという意味なのかもしれない、と思います。

新約聖書を読んで

 旧約聖書については、「創世記」、「出エジプト記」を読んだことがあるので、ある程度まではついていくことが出来ました。先ほど長々とキリストとはこんな人物なのではないかと語りましたが、少しだけ当たっていた、というのが正直な所です。

 数々の超常現象を起こすキリストですが、僕はそういった類のことを信じていないので(仏教にも同じような神話的表現があります)、鈴木大拙さんの「理性を超えた領域を、超常現象という形で表現している」という解釈を採用します。

 というのも、神の存在云々は証明できないものだと思っているので(所謂不可知論)、そういった理性、論理の及ばない領域に関しては、一般的に「信仰」という手段しか残されていないように思います。

 同じように禅も、理性を超えた領域の話をしています。禅というものは未だに良く分からないのですが、新渡戸稲造の言葉を借りれば、
「言語による表現の範囲を超えたる思想の領域に、瞑想をもって達せんとする人間の努力を意味する」(武士道:新渡戸稲造、33ページ7行)
というように説明できます。

 理性を超えた領域、二元論で考えることが出来ない世界については、現在では「宗教」という形をとらざるを得ないと思います。ただ、新約聖書の中でのキリストの言葉が、譬え(たとえ)にあふれていること、話を聞く人に考えさせるようになっていること、そしてキリストの起こす現象が全て「あり得ない、現実に矛盾した」ものであることを考えると、ある意味「禅問答」に近い部分もあるのではないか、と思いました。

まとめ

 読み終わった後のキリスト像ですが、もしかしたら誰よりも正確に旧約聖書を理解していた人物であったのではないかと思いました。人なのかどうかはおいて置きますが、どうしても考えざるを得ない内容です。というのも、20億人以上も信者がいるという時点で惹きつける何かがあるはずですし、それが何かがまだ分からないのでこれからも調べたりもしますが、そこがとても気になるからです。

 未だに読んだことがないかたは是非どうぞ。世界で最も読まれている読み物だと思うので、グローバル化を考えてみても読んだ方が良いと思います。

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