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オリジナルとコピーについて
オリジナルとコピー
全てのオリジナルはコピーである、というような言葉を聞いたことがありますが、これは確かに正しそうです。しかし、逆も言えるように思います。つまり、「全てのコピーはオリジナルである」。これもまた納得できる話です。一見対立する概念のようでありますが、コピーとオリジナルに対した違いはないのではないでしょうか。もしくは、ある大きな概念の側面に過ぎないのではないかと思います。丁度コインの裏と表のように、全く別のものではなく、見えている面が、見ている面が違うということではないかと思います。
まずは、全てのオリジナルはコピーである、ということですが、人間が作り出したものについては、何かしらのコピーである、ということが言えると思います。というのも、その源泉となる記憶というのは、それまで経験した現象や事物の総合であるからです。そこから出発して出来た物については、コピーである、ということが出来ると思います。それは他者が作ったものかもしれませんし、自然のコピーであるかもしれません。
人間が作ったもの以外についてのオリジナル、つまり生物の子孫を残す、ということについても、コピーであるということが出来るでしょう。親となる個体の情報のコピーということを踏まえればそう言うことが出来るでしょう。
しかし、上の議論を見て分かる通り、僕が使っているコピーという言葉は、結構広い意味を持ちます。他の物の情報を有して出来上がったもの、という意味で使っています。完全に同じもの、という意味では使っていませんが、現実的にミクロの世界にまで踏み込めば、完全に同じものなど存在しませんので、こういう広い意味でとっても問題ないと思います。
このとき、他のものの情報を用いずに出来るオリジナルは存在するのか、という問題が浮上します。これは何かから出来上がってはいけません。無から生まれなければなりませんが、それはエネルギーが物質に変化するという話でもありません。完全な無から有が生まれる、ということはありませんので、全てのオリジナルはコピーであると言えると思います。
続いてその逆である、全てのコピーはオリジナルである、ということですが、オリジナル、という言葉の意味をどうとるか、ということになりそうです。完全なオリジナルというのは存在しない、と先ほど述べたので、オリジナルという言葉は、他のものから出来上がっていても良いことになります。つまり、オリジナルという言葉は、他のものと完全に異なっていなくても良い、完全に他のものと独立したものではない、ということが分かります。こうして考えると、全てのコピーは、一つ一つ見ていけば同じものは無いということが分かるので、オリジナルであると言えます。
まとめ
オリジナルとコピーということは表裏一体の言葉である、ということが分かりました。ただその根本となる原理には、厳密には同じものは存在しないということ、無から有は生じないという証明が不可能に思われる、公理のようなものがありました。
表裏一体の言葉である、とは言いましたが、対立する言葉が互いに同じような意味になってしまうということは、そもそもオリジナルやコピーという概念が間違っている、存在しないという可能性があります。それらは人間が勝手に作り出した概念ですので、自然には存在しません。事物そのものを見ようとするとき、そうした人工の概念は邪魔になってしまうのかもしれません。
表裏一体の言葉である、とは言いましたが、対立する言葉が互いに同じような意味になってしまうということは、そもそもオリジナルやコピーという概念が間違っている、存在しないという可能性があります。それらは人間が勝手に作り出した概念ですので、自然には存在しません。事物そのものを見ようとするとき、そうした人工の概念は邪魔になってしまうのかもしれません。
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