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死の壁:養老孟司 感想とか

死の壁について

 養老さんの書かれたこの「死の壁」は、昔のことですが話題になりました。内容ついてはご自身で読んでいただくのが一番かと思いますが、まずは、死という理解を拒む壁について、僕なりの考えを述べていきたいと思います。

 「死」というものについて考えると、人間の思考はどこかで止まってしまいます。経験したことがないからです(もしかしたら睡眠のように毎日経験しているのかもしれませんが)。自分を主体にして考えると、「死」の時点で世界は終わりますが、自分以外を中心にして考えると、自分の「死」の後も世界は続いていきます。

個人の死

 我々が死を思う時、痛みや苦しみといった考えが出てきます。そして家族など周りへの影響はどうなるか、そして死んだらどうなってしまうのか、大体このあたりを考えるのではないでしょうか。周りへの影響などは、先に述べた自分以外を中心にした時の考えであるようなので、痛みや苦しみ、そして死んだらどうなるか、について我々が考えることについて考えたいと思います。

 死を考えるとき、痛みや苦しみを思うのは、痛みや苦しみの延長に死があると考えるからです。しかしよく考えてみると、痛みを感じずに死ぬこともありますし、そして痛みや苦しみの先に生や喜びがあることもあります。死は痛みや苦しみを包括する概念ではありません。

 ただ、一般的に考える痛みや苦しみというのは、苦しんでから死にたくない、痛い思いをしてから死にたくない、というものだと思いますので、そちらについてはどうでしょうか。こういうことを考える人は死はまだ遠いものだと思っているのではないでしょうか。一見して死を受け入れているようにも思いますが、死を考える間もなく死にたい、という風にもとれますから、死に至る道筋で考えを止めている人なのではないかと思います。死を受け入れる状態というのは、確実に死が目前に迫ってきている時ではないでしょうか。余命を宣告された後、命がけの挑戦であったりと、既に死に半分足を突っ込んでみて初めて死を受け入れる用意が出来るのではないかと思います。もし死をすでに受け入れている人がいれば、それは真に自由な人ではないかと思います。

 痛みや苦しみについて考えることは死に少し近づいた証拠ですが、もう一歩踏み込んで、死んだ時のことを考えてみて欲しいと思います。そこで考えを止めているだけでは何も得るものはありません。ただ死は嫌なもの、という印象しか残りません。

 死ぬことによって自分が得た何もかもを、そして得るかもしれなかった可能性も全てを失うことになります。元々持っていなかったものが、何も持たなくなるという事実だけ見れば何も不思議はありませんが、そんな理性での理解は、感情を納得させることは出来ないのではないでしょうか。

 結局何もかも失ってしまうという事実は虚無感をもたらしますが、それは絶望ではありません。望みすら元々無かったのですから、元々何もないことを自覚した、というのがその虚無感の正体でないかと思います。死ぬことについて考えるとそうした虚無感によって、自分がやっている全てが無駄に思えるときが来ますが、そういった時は何もしていない時です。死への探求心は何もしていない時に訪れるのではないかと思います。何かをしている真っ最中に死を考えることはあまりないのではないでしょうか。

 死んだことで悩んでいる人はいない、と言ったのはエピクロスだったでしょうか。エピクロスの言葉として、
死は我々にとって何者でもない。我々が存在する時死は存在せず、死が存在する時我々は存在しない。
というようなものが残っています。 こういう風に言うと、結局考えることに意味は無かった、という結論に至るかと思いますが、考えたことに意味があります。生を知るには死を知らねばなりません。いかに死ぬかはいかに生きるかということになりますし、死ぬとは何ぞや、ということが分かれば生きるとは何ぞや、ということもわかります。自身なりの「死」を明確にしておくことは、明確な「生」への方向性が定まるのではないかと思います。

社会的な死

 自分がいなくなっても世界は回ることを思うとき、せめて自分が生きた証を残したい、という人がいます。これは自己顕示欲のようでもありますが、そうした状況を感じる自分がいない、ということが念頭にあるはずなので、これは一種の自己保存ではないかと思います。自分を半永久的に残すために、自身の情報を自分の分身として残そうとするのではないでしょうか。

 一方で生まれてこなかったかのように、自分がいた痕跡を消してしまいたい、という人もいるかと思います。そして自分がどうであれ、残された家族の幸せを願う人もいます。また、死ぬのだから何もないとばかりに好き勝手やって家族に多大な迷惑をかける人もいます。

 社会的な死を考えるとき、一番その人の性格や人間像というのが浮き彫りになると思います。死ぬから何をしても良いという、倫理から解放された時に、最も正直になれるのではないかと思います。そこから自分が知らなかった、目をそらしていた自分に気付くことが出来るのではないでしょうか。

まとめ

 簡単にまとめると、僕は死ぬことについて考えることに関しては賛成だ、ということになります。「死の壁」においては、養老さんの知識と経験から、さらに深くまで掘り下げています。僕の文章に比べて広く、そして深く、死について考察されています。死は特別なものではなく自然なものである、ということが分かるではないかと思いますが、まずは自分で考えることをお勧めします。

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