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超ざっくり哲学史「啓蒙主義」

啓蒙とは

 啓蒙という本来の意味は、「蒙(くら)きを啓(あき)らむ」、暗いところを明るくする、光で照らす、という意味です。理性という光で、無知を有知に変えようとする思想を大きくひっくるめて啓蒙思想、啓蒙主義といいます。

 啓蒙運動とはそうした思想を広げる動きで、具体的には、社会思想、倫理学、政治思想や社会思想、文芸活動などの形で現れました。ヨーロッパにおいて、こうした啓蒙思想が広がったのは、17、18世紀のことですが、この時代のことを啓蒙時代と呼ぶことがあります。権力への疑念など、この啓蒙主義が、フランス革命につながったと言っても過言ではありません。

思想

 どんな人であっても、理性を持っているということを土台として、世界の理を理性によって認識できる、という考えが中心思想でした。理性と相性のよい、自然科学なども領域に含みながら、一見理性と対極にあると思われるキリスト教をも含んでいます。

 というのも、我々が生きている世界は、あまりにも合理的すぎる、もしくは理性が納得するような上手く出来た法則が支配している、ということから、理性とキリスト教の世界観は矛盾しないと考えられていました。むしろ、そうした理性を通して、神が作った世界の根本を認識出来る、という立ち位置であったかもしれません。

 自然科学など、理性によって正しいと認識できるものに慣れた啓蒙主義下の哲学者にとって、王権や教会などの権力は、理性によって正しいと思えないものでした。彼らは、人々が無知から解放されて理性によって正しく認識することで、よりよい社会を作れると考えていました。それによって、教育学などの、人を教え、育てるといったこともこの頃から真剣に考えられるようになりました。

 ただ、こうした啓蒙運動は、都市化、つまり自然を破壊して合理的な人工体系を作りあげることではありませんでした。むしろ、「自然に帰れ」などのスローガンがあがるなど、文明によって、元々自然であるはずの人間が損なわれる、という考えのように、それに反するものもありました。啓蒙主義は合理的な非人間的、非自然的なものを目指すのではなく、むしろ自然にそなわった理性というものを重んじていたのでした。理性というと、本能と対立するもの、動物的ではなく人間的なもの、というイメージがつきものですが、人間も結局動物、自然であることを踏まえると、理性もまた自然である、というのは当然のことのように思います。

 そうした啓蒙運動の中で、彼らは権利のために戦うことになります。権力に対する反抗は、人間本来が持っている権利、自然権をめぐるものなどがあります。自然権などというものが実際に存在するかどうかで言えば、存在しないのでしょうが、社会という大きな人間の集団の中で、自然権としか形容出来ない概念を見つけ出したのでした。

まとめ

 経験主義者たちが、理性よりも経験を重んじたのに対し、啓蒙主義者たちは、理性を何よりも重んじました。そうして理性のもとにさらされた王権などは、よりより社会を目指す上で邪魔なものと認識され、その後のフランス革命へとつながっていきます。

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