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自分が人からどう思われるか
人からどう思われるかという恐怖
前回の続きです。自分が人からどう思われるのかが怖い、ということは、具体的に何が怖いのでしょうか。自分が嫌な人間だと思われるのが怖いのでしょうか。ダメな奴だと思われるのが怖いのでしょうか。能力が無いと思われるのが怖いのでしょうか。どれも正しいとは思いますが、相手の評価というよりは、直視したくない自分の姿を見てしまうという恐怖であると思います。
嫌な人間だと思われることだとか、ダメなやつだと思われることが怖い、というのは、集団から外される恐怖になり得ます。しかし、能力が無いと思われていても、本当にその能力が足らなければどうでしょう。嫌なやつだと思われた所で、本当に嫌なやつであればどうでしょう。既に諦めの境地にいるか、恐怖を感じる意味もないと思います。
自己評価と他人からの評価というのは常に一致しているわけではありません。以上を踏まえると、自己評価より下に見られるのが嫌だ、ということになります。もちろんある特定の個人より下に見られるのが嫌だ、ということもあるでしょうが、それもその相手の方が完全に能力が上である、と思っていれば、他人からそう思われたところで痒くもないでしょう。他者と自分を比べて勝っている部分があると思うからこそ、その評価と異なる評価を受けることが気に食わないのではないでしょうか。いずれにせよ、他人の中の「自分像」が自分の中の「自分像」と乖離しないようにと思ってしまうことが、人からどう思われるか怖い、ということの原因だと思います。
自分の中の「自分像」と他人の中の「自分像」が異なっている場合、次のどちらかの行動を選択することになります。一つは、他人の中の「自分像」に自分を合わせること、もう一つは、自分の中の「自分像」を他人に正しく認識させることです。後者は、他人の「自分像」を上書きする、と言ってもいいかもしれません。
前者を選択してしまう人は、自分らしくない行動をとっている、ということが分かっていながら、それ以外の行動をとれないことを歯がゆく思うでしょう。後者を選ぶ人は、自分はそういう人間ではない、ということを分からせようと必死になるかもしれません。ですがそもそも他人の「自分像」とは何でしょうか。
他人の中の「自分像」、これは他人が自分をどう思っているか、ということを察して自分の中に作り上げた「他人の中の自分像」です。これは他人の中にありながら、自分の中にあるという不思議なものですが、こういう見方をすると、結局は自分次第でどうにかなりそうだと思われます。そもそも他人の考えなどは100パーセント理解するのは不可能ですし、表に出ている情報などは他人の人格の本当に表層にすぎません。そう考えると、「他人の中の自分像」を知るために、足りない情報を自分の経験から補うしかなく、また、そもそも得た情報に関しても信憑性は薄いです。なぜなら、その情報に関して解釈を加えるのは、自分の経験であるからです。つまり、「他人の中の自分像」は相手の言動などの事実と、自分の解釈や経験、自分から見た他人への偏見などで出来上がっていることが分かります。
自分の中にある「他人像」、というものを考えてみましょう。それは「あいつは良い奴だ」、「趣味はサッカーだ」など、本当に薄っぺらい情報であることが分かります。本当に中の良い友達などはもっと深いものでしょうが、自分の知人でそう深くまで知っている人はいません。同様に、本当の意味で他人の中にある「自分像」というのも、表層的なものであることが言えます。その人は、あなたのほんの一部しか見ずにあなたの「像」を作り上げます。あなたはそれに反発しても良いのですが、空気を読みすぎるような人は、その像だと思われる「他人の中の自分像」に従ってしまう傾向があると思います。
先ほどそもそも他人の中の自己評価などあてにならない、というようなことを言いましたが、案外当たっているのも事実です。相手を通して自分の悪いところを認識するのが怖い、というのが恐怖の原因であると思います。人の像に合わせる、自分の像に相手を合わせる、前者であれば「これは自分ではない」、という否定があり、後者であってもそれはあります。現状の否定、自分の能力の欠如の否定などが、そうした恐怖へとつながっているのではないかと思います。
どうしたらどう思われるか気にならなくなるのか
一つは自分の能力を上げることでしょうか。自他ともに認める、もしくは自分の中で確固たる自信があればどう思われていても気になりません。どう思われるか気になる、ということは、ある程度その能力だったりに無意識にでも劣っている、という思いを持っているのだと思います。
それが無理であれば、自分の中の「自分像」を書き替えるという手もあります。自分はそういう人間なんだ、と自分を改めて見つめることも大事です。ですが、考え抜いていくと、そもそも「そういう人間だ」と思う人間性、人格などはそもそも存在しないということが分かると思います。
いずれの場合も、他人の評価を受け入れる、ということをします。認めたくない自分を認めて、ようやく前に進めると思います。見ないように見ないようにと逃げていてもあまり意味はありません。むしろ自分の欠点なり早めに見つかった方が得です。自分がいかに自分を見ていなかったが分かると思いますので、他人にどう思われるかが怖い、という方は、自分が他人にどう思われているかどうか書き出すなどして、実際そういう部分があるのではないか、と考えることが第一歩だと思います。
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