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二元論的世界観

二元論

思えば世の中は二元論であふれています。例えば正義と悪だとか、男と女だとか、光と闇であるとか、一見対立する概念があふれています。私たちは全てを二元論的に分類している、とも言い換えられるでしょう。

 そもそも対立する概念は対立する概念なのでしょうか。一対となる概念は一対となる概念なのでしょうか。本当にそんな境界線は存在するのでしょうか。

 私たちが存在しない「一メートル」という長さを受け入れいているのも同じことです。本来連続的につながっている空間に切れ目を入れて、尺度を作り上げる。それがメートル法であったり、その他の長さの規準であったりします。

 同様に私たちは連続するものごとを不連続にします。その方が便利だからでしょう。脳が処理しやすいからでしょう。私たちはこれを意識的に行っているわけではありません。そしてこれはたいてい上手く機能します。私たちは全ての行動を意識的に行っているわけではありません。脳内のモニターは一度に一つのことしか集中できません。モニター外での処理は所謂無意識が担っているわけですが、無意識の処理は最初から無意識であったわけではありません。自転車に乗るのも最初は意識して、気付けば無意識に乗りこなせるようになったように、無意識は意識して行ってきたことの集合です。(もちろん呼吸など生命活動に必要なことなどもありますが)

 水を飲む、という動作は、コップを掴む、蛇口をひねる、水の量を見ていつ止めるか判断する、といういくつかの過程から成り立っていますが、それらを一塊「水を飲む」という言葉に集約しています。このように合理的に判断する、行動する上で、先に行ったようなこと、「連続を不連続にすること」が起こります。

 これが上手く機能しなくなる時、それは物事がうまくいかなくなったとき。人生に行き詰ったとき。悩みに苛まれるとき。人生の壁とでも言うようなものにぶつかったとき。こうしたときに、今まで蓄えてきた認識のパターンは打開の足かせになり得ます。つまり、これまでの生き方が通用しなくなったとき、それを見直す必要にせまられる、ということです。

不連続

不連続な世界、二元論的世界。これらは私たちを盲目にします。二元論の世界では、対立する概念は、もう一方の概念を含みません。つまり、生と死は同時には存在せず、光と闇は同時に存在しません。当たり前のようで当たり前ではありません。私たちの細胞は日々死滅し、誕生しています。光にも明暗があるように、完全な闇、完全な光は存在しません。我々は存在しない極論を仮定することによって、世の中を理解しようとします。

 最近LGBTの話題が多いですが、そもそも完全な男も完全な女は存在しません。誰しもが異性の要素を併せ持っています。それは当たり前のことですが、それを当たり前としない考え方が二元論です。男はこうである、女はこうである、という固定概念を作りあげた要因の一つも二元論です。明るい光、暗い光というものがあるように、結局程度の問題です。

相対的世界

 弁証法などの考えを用いれば、生は死であり、死は生である、ということが出来ます。弁証法などという言葉を使わずとも、私たちが勝手に引いた境界線を無くしただけだ、と考えれば分かりやすいでしょうか。男であるから女である、女であるから男である、光であるから闇である、闇であるから光である、これらはどれも正しいことです。

 先の話の中で、明るい光、暗い光というような話をしました。対立する概念なんてものはそもそもない、ということを習慣的に考えるようになると、次は「相対的世界」が見えてきます。

 上も下もない、相対的な考え方である。そのように考えることが出来ます。相対的な考え方は、その名前に似合わず絶対的な立ち位置をものにしています。相対主義は絶対主義を否定しますが、その立ち位置が絶対主義を肯定しているように見えるのは気のせいでしょうか。

 人と比べる意味がない、そのように考えることが出来るようになれば、それは相対的世界からの脱却です。何かを基準として何かを決める、というのは「世界に境界線を引く」ことの応用です。

 基本的に人は自分を基準として他人を上か下かに分類します。境界線を引くことが無意味であることは、上の「不連続」でも話したと思います。それでは相対的な世界から抜け出すのに不十分です。

 分類することを止めねばなりません。これも理解してどうこうなることではありません。意識的に無意識に介入して分類をしないようにしなければいけません。禅ではそれを座禅によって解決しようとしています。

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