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自分がわからない
自己分析
就活の時期などによく聞かれる「自己分析」という言葉ですが、信憑性はあるのでしょうか。よく聞くことが「ジョハリの窓」でしょうか。
「自分だけが知っている自分」
「他人だけが知っている自分」
「自分も他人も知っている自分」
「自分も他人も知らない自分」
自分だけが知っている自分
この四つに分けて自分を分析するというものです。自分だけが知っている自分、というのはどういうことでしょうか。おそらくは、これまでの経験、記憶から、そこに共通する事項を抽出してレッテルを貼ることでしょう。例えば、中学のとき人付き合いが苦手だった記憶、高校のとき仲間に加われなかった記憶、大学のとき人見知りしてしまった記憶。そう言った記憶から共通する項目、「コミュ障」(あまりふさわしくありませんが)などが抽出され、自分という人間を判断する基準になります。
一方で、集めるデータが偏っていれば導き出される結果は変わります。人は成功した記憶よりも失敗した記憶の方が強く残るため、思い出すときに真っ先に先ほどのような記憶が甦ります。失敗例と成功例を全て書き出して、どちらのデータ数が多いかということを考えると、完全に「コミュニケーションが苦手である」ということは出来なくなってしまうでしょう。もしくは導き出される結果として、「初対面で、かつ本能的に怖いと思う人に関してはコミュニケーションが苦手」というように、より正確なものが現れるかもしれません。
この自分だけが知っている自分、というものは、データを集めるのも自分、判断を下すのも自分、というように、客観性が欠けるものになります。また、現時点でそうかもしれませんが、未来永劫その結果が正しいわけでもありません。この項目に関しては、曖昧な自分の立ち位置しかわかりません。あくまでも、類似した状況が今後起こったとき、自分がとるであろう行動の傾向にすぎず、本当にそれが起こるかどうかは分かりません。
他人だけが知っている自分
「他人」はその人の中にある記憶のパターンに「自分」を当てはめ、「自分」をこういう人間だと結論付けます。第一印象から大きく外れることはないようですが、容姿の変化など、あからさまな変化が起こったときは第一印象を見直すこともあるようです。
「他人」が知っている「自分」というのは、「他人」の中の「自分」であるという前提があります。意外と人は人を観る眼がないので、こういう人間だと思っても、それが大きく外れるということが多々あります。
というのも、「他人」が見る「自分」というのは対人環境にあるので、人の目を気にして「演技」をしているからです。人は一人であっても「演技」をすることがありますが、人の目がある時のそれは、一人の時の比ではありません。道を歩いていて、向こうから人が来たのを見た瞬間、人は「どう見られるか」ということを考え「そうみられるような演技」を始めます。
こうした人とすれ違う時でさえ演技をしているのですから、知り合いや同僚の前であればどれだけ演技をしているのでしょうか。「他人」が知っている「自分」のうち、大半は「自分も他人も知っている自分」です。正確に言えば、「他人にこう思われるであろうと自分が認識して、そのように動いている」でしょうか。
もちろん、他人に言われて初めて知る自分というものもあります。しかしそれは大抵一人の時の自分そのものです。演技をしていない自分というものを見透かされる時があります。演技をしていないときというのは、自分では認識していないことが多く、また演技をしていない自分を自分だと認めることが嫌な人もいるでしょう。
別に演技をしているから「自分ではない」とか、演技をしていないから「これが本当の自分である」というように思う必要はありません。どちらも自分であることは間違いありません。これははっきり区別できるようなものではなく、複雑に入り組んで、相互に影響を与えています。
ただ、自分という人間を、他人という価値観の下で判断した結果、「他人だけが知っている自分」というものになるケースもあります。この場合は、本当に自分が知らない新しい視点を与えてくれることもあるので、素直に聞きいれるのも良いと思います。
総じて言えることですが、他人は自分の全てを知ることは出来ないということです。
「他人も自分も知らない自分」
結論から言えば、全てがこれに属するのではないかと思います。自分も他人も「自分」について知ることは出来ず、統計的な判断しか下せないのではないかと思います。歳をとるにつれ、知らなかった自分の面が見えると同時に、他人の知らなかった面が見えるようになります。
他人を知ることは自分を知ることであり、自分を知ることは他人を知ることであると思います。自分、他人、それぞれは独立した存在ではありますが、自分というものを知ろうとすると、どうしても他者の存在が必要で、そういう意味で考えると、人というものは個人では存在せず、集団を構成する要素の一つなのではないかと思います。人をあえて「人間」という風に書くのもそこから来ているのではないかと思います。
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