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超ざっくり哲学史「スピノザ」

スピノザとは

 17世紀頃の有名な哲学者の一人、バールーフ・デ・スピノザはユダヤ人で、オランダで生まれました。ユダヤ教団に属していましたが、神を自然の働きやそのものと同一視する自由な考え方をしていたため、無神論者として追い出されてしまいます。教団のありかたなどに批判的な発言をしていたため、狂信的な信者から暗殺されそうにもなりました。最終的には家族からも見放され、レンズを磨くことで生計を立てることになったそうです。

思想

 スピノザは「我思う、故に我あり」というデカルトの思想を受け継いでいました。彼の解釈では、これは理解だけではなく、その事実を直覚する、悟ることでした。

宗教観

また、彼の神の概念は、汎神論として知られています。つまり、神は自然そのものである、という考えでした。この自然とは、狭義の意味ではなく、もっと広い意味で使われているので、世界とでも言い換えた方が良いかもしれません。そうすると、神は世界そのものである、もしくは世界は神の一部である、というように見ることが出来ます。また、さらにスピノザは意味を広く取り、人や生き物なども含めていました。

 彼が無神論者として追放されたことについてですが、この汎神論に原因がありそうです。形はどうあれ、神はいるのだと言っているのだから無神論ではないように思いますが、この「世界は神である」ということは言ってしまえば、神で無いものは無い、と言っているようなものです。これまでは、神と神以外が存在するという世界観でしたが、神のみが存在するという一元的考え方が、無神論とされたようです。

世界観

 デカルトと違い、スピノザは世界を二つに分けることはしませんでした。デカルトは、世界を「思惟」と「延長」という二つに分けましたが、スピノザは一つの「実体」だけが存在するとしました。神についての考え方や、このような世界観から分かる通り、彼は一元論者であったようです。

 彼は世界を一元的に捉えていたので、「思惟」、「延長」のような異なって見える二つのものも、あるものの一側面であるというように考えました。彼の根底には、神は自然であるという考えがあったので、神のある側面が顕在化したものが「思惟」だったり「延長」であるというように考えたのでした。

 そのように考えると、僕たちが行動する、思考するということも自然の一部ですから、自然が僕たちの行動をする、という奇妙な言い方ですが、そのように言うことが出来ます。体にせよものにせよ、ある備わった本性、特性や法則に従った働きしか出来ない、これは事実ですから、ここで見方を変えると、そうした働きは自然によって決められている、というように言えると思います。神は自然でしたから、神はそうした働きの「内なる原因」であると彼は考えました。

自由について

 スピノザは、自分で自分の原因となれるものが真の自由を得るというように言っています。普段の生活の中では、自分以外のものが原因で、自分が動くということが多いと思います。広告だったり、習慣であったり、無意識、意識問わず、外からの情報が行動の原因になることが多いと思います。そんな中、自分で自分を引き起こせる、言い換えれば自分を律することの出来る人間でしょうか、そうした人こそ自由である、と彼は考えます。そして究極の自由、完全なる自由というのは神、すなわり自然のみが持つ、ということにたどり着きました。

 人も自然の一部であるので、人は完全な自由ではないのか、とも思うかもしれませんが、あくまで完全なのは、自然全てについてであって、その一部一部を見ていくと自由でない部分、首が360度回らないなどの制約があるなど、が現れます。それらが総合した自然というものが完全な自由であると彼は考えたのでした。

まとめ

 スピノザは、デカルトの考えを一部受けつぎましたが、一元論的にそれらを一つのものとして考えました。彼の哲学体系というのは、そうした神は自然などの一元的考えに基づいていました。
「経験主義、ジョン・ロック」

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