移転しました
超ざっくり哲学史「四大元素、原子、運命」
「神話、ミレトスの学者」
「無と有、万物は流転する」
「無と有、万物は流転する」
エンペドクレス
前回の二人の少し後、エンペドクレスという人物が、万物の根源は、「土」、「空気」、「火」、「水」であると唱えました。世の中の物質はこれらの四大元素の組み合わせで出来ており、それらが違って見えるのは、配合の割合が違うからだとしました。
前回のヘラクレイトスとは打って変わって、分かりやすく、僕たちにも馴染みのある思想になってきました。エンペドクレスは、考えられるだけ物質を分解していったのです。彼がこんな考えに至ったのは、タレスやアナクシメネスのように、万物の根源を一つのものとすることで、理解を拒むような出来事が起きると考えたのでしょう。
その解決策として、根源は一つではないとしたのです。
アナクサゴラス
同じころ、アナクサゴラスという人物が、あることについて考えていました。例えば私たちの爪は勝手に伸びていきますが、別に爪を食べているわけではありません。
「無」から「有」は生まれないとするのは、パルメニデスでしたが、爪を食べていないのに爪が生えるのは、無から有が生まれることになってしまうと、アナクサゴラスは考えました。そこで、僕たちが日々食べるものに、爪の素になる何かが含まれている、とこのように考えたわけです。
「無」から「有」は生まれないとするのは、パルメニデスでしたが、爪を食べていないのに爪が生えるのは、無から有が生まれることになってしまうと、アナクサゴラスは考えました。そこで、僕たちが日々食べるものに、爪の素になる何かが含まれている、とこのように考えたわけです。
彼はその何かを、微小なものだと考え、あるゆるものの縮図が含まれているものだとして、「種」(スペルマタ)と呼びました。物質を分解していくところは、エンペドクレスや現代の元素という概念に近いものがありますが、何かになる情報が入っている、というのは現代で言えばDNAに近い概念です。
彼は、万物はこの世の始まりにおいては一つであり、境界の曖昧なものであったと考えます。そして、設計図を元にそれらを分離させ、作り上げる存在として「ヌース」というものを考えました。
彼は、万物はこの世の始まりにおいては一つであり、境界の曖昧なものであったと考えます。そして、設計図を元にそれらを分離させ、作り上げる存在として「ヌース」というものを考えました。
デモクリトス
紀元前460年頃、少し最近に近づいてきましたが、この頃活躍したデモクリトスは、それまでの哲学者たちの考えを引き継ぎ、「原子」(アトム)という不変の小さな粒子を考え付きました。それまでの四大元素のように、出来るだけ少ないもので全てが成り立っているという先入観から脱して、多様な原子が存在すると彼は考えたのです。
彼の考えた原子は、同じ形がなく、それぞれがくっついたり離れたりすることで、様々な物質を作りだしました。このデモクリトスの原子論は現在でも正しいとされており、彼の観察眼、そして考察力がいかに秀でていたかが分かります。
また、彼の思想で特徴的なのは、アナクサゴラスのように、分割を担う「何か」というものの介入を許さなかったことです。精神的なものも信用していなかった彼は、物質のみを信仰していました。そういうわけで、彼は「唯物論者」(マテリアリスト)と呼ばれています。
彼の感性というか世界観は現代人に近しいところがあり、死後は無である、というように考えていました。また、認識の仕組みについても原子を用いて考えており、万物はいったいどこから来るのか、という大きな流れから、「意識」という流れにも身を投じています。
運命論
運命論、という言葉は聞いたことがあると思います。起こる出来事は前もってすべて決まっている、いう考え方です。この考えはいつの時代、どの場所にも見られ、昨今も根強く残っています。おみくじなんかも言ってしまえばそんなものの名残でしょう。
古代ギリシャでは、神託の神アポロンが、巫女を介して語るとされていました。未来は全て決まっているという考えが蔓延していました。病気や災害は神の仕業であり、神への供え物をすることで、人間は健やかに保たれると、そう考えられていました。
その流れはしばらく消えることはありませんでしたが、そんな中、歴史をまとめようとする試み、そして医術の発達というのが目立ってきます。
それまで、運命は神の御業であるとされていた上、病気も神の仕業でしたが、人間の力で介入できるようになってきたのです。これは後の哲学者たちに神への疑いの心を呼び覚ますきっかけになったのかもしれません。
話が少し変わりますが、運命論、神がかり的な運など聞くことがあると思います。もしあなたがじゃんけんのトーナメント戦で100億回勝って優勝したとします。(トーナメント100億回だと参加人数は$2^{10^{10}}$となり膨大になりますが、今回は無視します)
100億回も連続でじゃんけんで勝つなんてあり得ないでしょう。それこそ神の思し召しだと思うかもしれませんが、トーナメント戦という特性上、かならず一人は優勝者がいます。
なんどこのトーナメントを行ったとしても必ず一人、優勝者が出ます。100億回買ったことに関しては何の不思議もありませんが、そうなると、その膨大な参加者から自分が選ばれたことに関して神の意思を感じだすのではないでしょうか。
膨大な数、理性の範疇を超えたような世界では、理性が機能しなくなるようです。本質は友達とじゃんけんで買ってジュースをおごってもらうのと何も変わらないことであるのに、数という悪魔が現れただけで、我々は神を妄信してしまうようです。
「ソクラテス、プラトン」
「ソクラテス、プラトン」
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