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超ざっくり哲学史「ソクラテス、プラトン」
「神話、ミレトスの学者」
「無と有、万物は流転する」
それまでの哲学者(学のある者)たちは、ギリシャの中心部ではなく、辺境地、植民地に多くいました。アテナイの文化が、幾分保守的であったことも理由の一つです。
しかし、「弁論術」を教えることが出来る存在として彼らは重宝されはじめ、少しずつアテナイへと集中し始めます。彼らは自らをソフィスト、哲学者と名乗り始めました。この頃の哲学者たちは、人間は自然や宇宙に対して確かなことは分からない、という立場をとっています。これを「懐疑主義」とも言いますが、当時のアテナイはこうした新しい思想と、それまでの唯物論的な思想が入り混じっていました。
当時の哲学者プロタゴラスは、「人間は万物の尺度である」という言葉で知られています。彼は、認識は相対的なもので、絶対的な認識、知識、価値は存在しないと考えました。よく聞く、同じ青色でも、自分が見ている青と、他人が見ている青が同じものであるとは限らない、という話にも通じますが、こうした立場を「相対主義」といいます。
ただ、彼は「神々について何も知らない」というように、本質的なものは人間には捉えられないとする「不可知論」的な立場でもありました。これは「相対主義」、絶対的なものは無いとする考えから出発したものであるかもしれません。
上の説明では、「懐疑主義」と「不可知論」は同じように見えてしまいますが、別のものです。「懐疑主義」が、疑わしいものを取り除いていこう、という考えであるのに対し、「不可知論」は、そもそも知ることが出来ないとする考えです。いつかは正しいものが見つかるかもしれないとする「懐疑主義」に対し、まず認識出来ないとするのが「不可知論」です。
この頃の哲学者たちは「相対主義」に舵を切ろうとしていました。世の中には絶対的なものなどないと考えたのです。
「無と有、万物は流転する」
アテナイ
紀元前450年頃、ギリシャのアテナイには、民主主義が誕生していました。市民集会と裁判が発展し、人々は相手を説得する技術、「弁論術」の習得に励みました。それまでの哲学者(学のある者)たちは、ギリシャの中心部ではなく、辺境地、植民地に多くいました。アテナイの文化が、幾分保守的であったことも理由の一つです。
しかし、「弁論術」を教えることが出来る存在として彼らは重宝されはじめ、少しずつアテナイへと集中し始めます。彼らは自らをソフィスト、哲学者と名乗り始めました。この頃の哲学者たちは、人間は自然や宇宙に対して確かなことは分からない、という立場をとっています。これを「懐疑主義」とも言いますが、当時のアテナイはこうした新しい思想と、それまでの唯物論的な思想が入り混じっていました。
当時の哲学者プロタゴラスは、「人間は万物の尺度である」という言葉で知られています。彼は、認識は相対的なもので、絶対的な認識、知識、価値は存在しないと考えました。よく聞く、同じ青色でも、自分が見ている青と、他人が見ている青が同じものであるとは限らない、という話にも通じますが、こうした立場を「相対主義」といいます。
ただ、彼は「神々について何も知らない」というように、本質的なものは人間には捉えられないとする「不可知論」的な立場でもありました。これは「相対主義」、絶対的なものは無いとする考えから出発したものであるかもしれません。
上の説明では、「懐疑主義」と「不可知論」は同じように見えてしまいますが、別のものです。「懐疑主義」が、疑わしいものを取り除いていこう、という考えであるのに対し、「不可知論」は、そもそも知ることが出来ないとする考えです。いつかは正しいものが見つかるかもしれないとする「懐疑主義」に対し、まず認識出来ないとするのが「不可知論」です。
この頃の哲学者たちは「相対主義」に舵を切ろうとしていました。世の中には絶対的なものなどないと考えたのです。
ソクラテス
彼は名前こそ有名ですが、生きている間に文章によって思想を伝えるということを一切しませんでした。その役目を担ったのは弟子たちですが、彼以外が発信する情報によって、彼の姿、思想が現在にも伝わっています。
彼は、何か教えと説くというよりは、様々な哲学者のもとを訪れ、彼らの主張を聞く、というものでした。この問答は、彼の母親は産婆であったそうですが、相手から理解を「生み出す」ことと結びつけて、ソクラテスの産婆術とも呼ばれています。
相手が自分の主張をソクラテスに説明しようと奮闘するうち、自分の主張の矛盾に気付きます。公衆の面前でそんなことをされた人々の中には、彼に恨みを持つものがいました。
最終的に、ソクラテスは紀元前399年、「青年を堕落させた」として死刑を宣告されます。彼は恩赦をもらうことも出来たようですが、彼は国家のために良かれと思ってやったのだ、と自ら毒の杯を飲みました。
それまでの哲学者たちは、自分のことを知識のある優れた人物だと思っていました。それに対してソクラテスは、自分は何も知らないと知っていました。「無知の知」としても知られていますが、彼は、他の哲学者たちにもそれを自覚してもらいたかったのではないかと思います。
彼の探求心は、弟子たちに受け継がれました。
彼は、何か教えと説くというよりは、様々な哲学者のもとを訪れ、彼らの主張を聞く、というものでした。この問答は、彼の母親は産婆であったそうですが、相手から理解を「生み出す」ことと結びつけて、ソクラテスの産婆術とも呼ばれています。
相手が自分の主張をソクラテスに説明しようと奮闘するうち、自分の主張の矛盾に気付きます。公衆の面前でそんなことをされた人々の中には、彼に恨みを持つものがいました。
最終的に、ソクラテスは紀元前399年、「青年を堕落させた」として死刑を宣告されます。彼は恩赦をもらうことも出来たようですが、彼は国家のために良かれと思ってやったのだ、と自ら毒の杯を飲みました。
それまでの哲学者たちは、自分のことを知識のある優れた人物だと思っていました。それに対してソクラテスは、自分は何も知らないと知っていました。「無知の知」としても知られていますが、彼は、他の哲学者たちにもそれを自覚してもらいたかったのではないかと思います。
彼の探求心は、弟子たちに受け継がれました。
プラトン
ソクラテスの弟子であるプラトンは、ソクラテスが死んだとき、29歳でした。彼は師が社会に殺されたことに納得出来ていませんでした。だからこそ彼はソクラテスの考えを文章として残そうと思ったのでしょう。彼のおかげでソクラテスという名前が伝わってきていると言っても過言ではありません。
プラトンは、哲学の学校として「アカデメイア」を開きますが、そこでは、哲学に始まり数学、天文学、体育を教えていました。「教えていた」とは言いますが、アカデメイアでは会話が盛んに行われていました。ソクラテスから学んだ問答、ということを大事にしていたのでしょう。
教育の先駆けとなった彼の活動ですが、彼の思想は、それまでの相対主義に一石を投じることになります。絶対的なものはないというのがそれまでの思想でしたが、彼は絶対的な何かが存在すると考えました。
例えば、りんごを思い浮かべてください。齧られていたとしても、青かったとしても、りんごはりんごです。僕たちがりんごをりんごだと思うのは、頭の中に完全なりんごを持っているからだ、と彼は考えました。
万物の背後には、そのものの型が存在すると考え、彼はそれを「イデア」と名付けました。感覚の世界の後ろには、永遠で普遍の「イデア界」が存在すると考えたのでした。
プラトンは他の哲学の派閥とも交流があったため、数学に対して興味を持っていました。数学においては、確実なことが言える、と彼は考えました。現実世界に正確な三角形は存在しません。どこまでも拡大していけば、角はどうしても丸みを帯びたり、歪な形になるからです。しかし、僕たちの頭の中には完全な三角形が存在しています。その中では内角の和は180度で、三角形についての性質が全て成り立ちます。
彼はこうして、世界を「感覚界」と「イデア界」に分けましたが、同じように、体と魂も分けて考えました。そして、魂は元々イデア界に存在していたと考え付きます。僕たちがりんごを見たときに感じるりんごだという、「真のりんご感」、これはイデア界にいたときの記憶であり、僕たちはイデア界に強く惹かれるのだ、と言います。彼はこれに愛という意味の「エロス」という名前をつけました。万物の真の姿に気付く、ということに対して、彼は洞窟の比喩という話を持ち出しています。
まとめ
ソクラテスは、それまでの哲学者たちに自己矛盾に気付かせ、目を覚まさせようとしました。プラトンはそんなソクラテスの言葉を後世に伝えようと努め、教育においても大きな貢献をします。そして相対的であったそれまでの思想に、イデアという絶対的な概念を持ちだしたのでした。
「アリストテレス」
「アリストテレス」
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